投稿

2019の投稿を表示しています

これからの10年

イメージ
今年も早いもので、街行く人の服装は冬の装いですね。 コート着てたり、ブーツ履いてたり。 秋も短くてあっという間なんやなぁと思ったりします。 今年の前半は、令和が始まったり、消費税増税の準備に追われたり なにかと気ぜわしい雰囲気だったように思います。 そして、来年は2020年。 21世紀も20年が過ぎ、来年からまた2020年代と言われる新しい10年のスタートです。 平成、そして2000年から2020年までの20年は私にとっても社会でいろんな経験をする 大切な時期だったと思います。 私たちの業界でも2000年問題に端を発したシステム刷新、そしてネットビジネスの創造と 常に新しいもの、次に来るものを探す流れが続いてきました。 さんざん言われてきたことですが、ネットビジネスは旧来のビジネスと社会構造を変革し ビジネスモデルだけにとどまらず、近年のワークライフバランスや働き方改革のような 企業と人との関わり合いの姿まで変えつつあります。 そして、次の10年。 どんな時代になるのでしょうね。 イノベーションのジレンマの言葉のように、ネットビジネスですら新興ではなく旧来からある ビジネスになりつつあります。 ビジネスの真髄は変わらず、トレンドは輪廻します。それは宗教における神様と人間のようで もありますね。 ネット一辺倒ではなく、ネットとリアルの融合、それは古くは「クリックアンドモルタル」と いわれ、最近では「オムニチャネル」と言われますが、いつの時代でも、どんなトレンドの中でも 購買行動において「人とのコミュニケーション」が果たす役割の大きさは変わりはしません。 人がマーケットに求めるものは「何か新しいもの」。 もちろんそれだけではありませんが、100均の便利グッズを見つけたり、「なにそれ!?」というテレビの情報番組で紹介された商品は相変わらずヒットを飛ばし続けます。 ただし、そこで勝ち残っていけるのは「ここ買えば大丈夫」という安心の担保です。 ここからの10年は、「安心と保証」がネットビジネスのキーワードになると言われています。 今はネットという購買チャネルによって、いろんな場所のいろんなものが手に入ります。 だからこそ、その数が増えれば増えるほど、その情報を整理できなくなってくるのです。

触れるということ

イメージ
今や「コンテンツの時代」と言われて久しい。 小売やサービス業はもとより、メーカーであれ、どんな業種であれば、自らの付加価値を「コンテンツ」として消費者、買い手に届けることができなければ存在し続けることはできないのは、自明の理です。 商品や企業の特徴、長所、具体的なイメージは、言葉や資料、画像や動画に変換され、相手のもとに届けられます。 それは、具体的なサービスのものにとどまらず、企業の社会に対する姿勢、働く人たちの顔に診て取れるその組織の未来ですらあったりします。 それらを、伝えたい相手に合わせて、こちらからそっと「触れ」にいくような、 そう、まさに大切な子供に触れるような気持ちで、 その子供の心を覗き、願いを叶えてあげたいと思うかのように。 宣伝物にせよ、接客のマナーにせよ、相手の心に触れようとしなければ自己満足の置物にすぎません。 自分たちが受け身になってしまえば、綺麗なキャッチコピーも自己陶酔でしかないのです。 あなたが、顧客の心に「触れたい」と思えば、きっと手応えを感じることでしょう。 なぜなら、顧客も満たされたいと感じているのですから。

学ぶということ

イメージ
「学ぶ」 その語源は、「真似る」>「まねぶ」からきていると言われています。 人は、生まれた時から何かを学び続けるものです。 その言葉のニュアンスの通り、決して受け身ではなく、自らが何かを得て知識を得たり、あるいはそうしようとする様をそのように呼ぶのだと思います。 そしてそれは、決して学問を修める事に限られるのではなく、人の心の有り様や、生きていく上で欠かせない知恵であったり、あるいは危険から身を守るものであったりします。 「学ぶ」ためには、欠かせないその人の前提条件があります。 その1)心が開かれている事 外界の刺激や情報から身を守り、頑なに心を閉ざしている人は、決して何かを学ぶことはできません。なぜなら、その人は変化することを恐れるからです。 人が心的に防御の姿勢になるということは、「生存欲求」に基づきます。 「生存」とはすなわち生き続けることです。死んでいる人はもちろん生き続けることはできるはずもありません。 今、自分が生存していることを認識しているからこそ、その状態を保ち続けたいと願う気持ちが心を支配し、それを求めている。その状態では変化は「怖い」ものなのです。 その2)報酬を理解していること 「学ぶ」ことをするためには、その「学ぶ」ことによって得られる報酬、それは金銭やご褒美といった単純なものに限られるのではなく、もう少し高い欲求、「承認欲求」や「自己実現欲求」であるような、高次の欲求であればあるほど、その意欲は増すことでしょう。 ある実験で、テストで良い成績をとった子供にそれぞれ、「努力を褒める」「能力を褒める」と言う風に、良い成績の元となる評価に異なるものを下すと言うものがありました。そして、継続して良い成績を収められるのはどちらかを見定めるのです。 結果は、「努力を褒める」ことをした子供たちの方が、その後も良い成績を取ることができました。つまり、その報酬によって何を満たすかが大事なのだと言うことです。 さらにその報酬は、相手にとって「報酬」とわかるものでなければ意味がありません。 子供の頃に算数が苦手な子の多くは、いわゆる「訓練不足」であり、それは、「算数を学習した結果、何が嬉しいのか」が理解できていないのです。 理科や社会は、身近なものから広がり、直接的な興味関心も手伝って楽しく感じられるのです

出会いということ

イメージ
人生50年、働き出して早25年。 その半分を社会に出て過ごしてる事になります。 多くの人たちと出会い、助けられ、教えられしてきたような気がします。 その中でも縁なのか、不思議と続く関係もあったり、 もう会えなくなって久しい人もいたりします。 昔、師匠に 「仕事をするなら、お客さんから会社をやめても『個人』として声をかけられる人間になれ」 と言われました。 そのお陰なのか、気軽に声をかけていただくことが何度かあり、本当にありがたいなぁと 感謝しても仕切れないくらい、そんな時は喜んでしまいます。 つい最近も、ふと昔ご一緒させていただいた、尊敬する人からお声がけをいただくことがあって、随分と間が空いてるけど、その時一緒に仕事をさせていただいた感触がふと蘇ったりして、なんとも嬉しい気分になりました。 最初の大手の会社で味わった、「会社のブランドがあるからあってもらえる」事に気づいたショック。たぶん、あれは自分自身のキャリアの中で転換期だったような気がします。 そして、今。 思えば昨日まで、見も知りもしなかった人と何かを一緒に成し遂げようとしている。 だから、明日もきっと、今まで知らなかった何かが待ってるかもしれない。 今はまだ知らないけど、ワクワクさせてくれるものが待っているに違いない。 そう思いを寄せるだけで、明日が楽しくなってきませんか?

勇気ということ

イメージ
梅雨入り、したんですかね? いつになく涼しくて過ごしやすいなぁと感じています。 もうすぐまた、夏がやってきます。 夏の風物詩といえば、花火。 眺めてるだけで、わくわくしたり、美しさに心打たれたりしますね。 仕事で出かけた先で、思いがけず夜空に上がる花火を見たりすると ちょっと元気が出たりして。 日々何気なく過ごしていたくても、ふとしたきっかけで凹んだり、 思い通りにいかなかったり、不安な気持ちに負けそうになったりとか。 そんなときにそんな場面に出くわすと、ちょっと前に向いて進む勇気をもらえるような気がします。 仕事だけじゃなく、生活の中でも、そんな「勇気」がほんの少しでも持てたら 乗り越えられることがある。 うまくいかない、もやもやを晴らしてくれるのは、ちょっとした「勇気」なのかもしれません。 確かに、手に取ったはずの果実を誰だって手放したくないし、 じっと嵐が過ぎるのを待ってれば、そのうち晴れるかもしれない。 でも私は、自分で道を開きたいし、「勇気をだせなかった」と後悔したくはない。 新しい場所に飛び込む勇気 自分を知ってくれている仲間の中から飛び出す勇気 失敗するかもしれない心に打ち勝つ勇気 内なる自分をさらけ出し、がっかりされてしまうかもしれない怖さを乗り越える勇気 そんなちょっとした勇気が持てたら、気持ちいい風がきっと吹く。 明るい、まぶしいばかりの光がきっと待っている。 そう思って、明日も進んでいきたいです。 そう思える仲間たちと、ね。